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どんくらの映画わくわくどきどき
自分が観た映画の話題を中心に書き留めている個人的なブログ。 写真はパリ ノートルダム大聖堂(2000) 文中敬称略。文&写真:どんくら
ワイアット・アープの生涯と映画
ワイアット・アープは西部開拓時代の米国に実在した人物。昔、ワイアット・アープは西部の名保安官だと思っていた。テレビドラマや映画にもなった。ワイアット・アープと同時代の西部小説家ネッド・バントラインが、5人の名保安官に特注の長銃身の拳銃バントライン・スペシャルを贈ったというのも、そのころから名保安官として有名だったからだと思った。
 英語版WIKIPEDIA(末尾に参考記事一覧を掲載)には何人もの人たちがワイアット・アープについて書いた記事が載っていて相反する記事も載っている。これによるとかなり悪い評判も多かったようだ。彼を有名にした所謂OK牧場の決闘にしても無抵抗の相手を射殺したという証言もある。バントライン・スペシャルもかなり疑わしい。もちろん一世紀前の人なので真相はわからない。


■ワイアット・アープが登場する映画・TV

□ Wild Bill Hickok (1923) … ワイアット・アープの友人ウイリアム・S・ハート主演西部劇。ワイアット・アープという役名の俳優が映る。ワイアット・アープ生存中に公開された。
□ Frontier Marshal (1934) …  レイクの小説が原作だが、主人公の役名はマイケル・ワイアット
■ Frontier Marshal (1939) フロンティア・マーシャル(---) … レイクの小説が原作だが、ワイアット以外のアープ兄弟もクラントンも出てこない。
□ Tombstone, the Town Too Tough to Die (1942)
■ My Darling Clementine (1946)  荒野の決闘 (1946) … レイクの小説が原作。ジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ
□ Wichita (1955)
□ The Life and Legend of Wyatt Earp (TV1955–1961)
■ Gunfight at the O.K. Corral (1957) OK牧場の決斗(1957)
□ Cheyenne Autumn (1964) シャイアン(1964)
□ Desafío en Río Bravo(1964) ワイアット・アープ(スペイン/フランス/イタリア)
■ Hour of the Gun (1967) 墓石と決闘(1967)
□ Doc (1971) ドク・ホリディ(1971)
□ SUNSET(1988)キャデラック・カウボーイ(---) … 西部劇俳優と西部劇アドバイザーのワイアット・アープが殺人事件を追う
□ Tombstone (1993) トゥームストーン(1993)
■ Wyatt Earp (1994) ワイアット・アープ(1994) … ケヴィン・コスナー
■ Wyatt Earp's Revenge (2012) ワイアット・アープ リベンジ 荒野の追跡 (2012) … ヴァル・キルマー


■ワイアット・アープの略歴

 ワイアット・アープは1848年にイリノイ州で生まれた。南北戦争のころはまだ子供だった。ワイアットは様々な仕事をした。輸送馬車の御者、バッファローハンター、警備員、サロンの支配人、ギャンブラー、売春の元締めや用心棒、鉱夫、ボクシングレフリー、投資家。横領、詐欺、馬泥棒もして何度も逮捕され脱獄もした。警官、町の保安官補佐、副連邦保安官にもなった。何度か結婚した。
 1881年、トゥームストンでアープ兄弟とカウボーイズと呼ばれる男たちの間でもめごとが起きOKコラルでの撃ち合いが起きた。その後も殺し合いが続いたがワイアット・アープは撃たれることもなく開拓時代を生き延びた。
 1896年、全米ボクシング・チャンピオン戦のレフリーをして不正判定をしたという悪評が広まった。
 1915年頃にはサイレント時代のハリウッドにも出入りして映画スターの友人もいた。
 1929年、ロサンゼルスで80歳で死去した。
 1931年、スチュアート・N・レイクによるワイアット・アープの小説"Wyatt Earp: Frontier Marshal"が出版されベストセラーとなり、ワイアット・アープは名保安官というイメージが広まった。

■子供のころ 

 ワイアット・アープ"Wyatt Berry Stapp Earp"は1848年3月19日にイリノイ州で生まれた。彼の兄弟姉妹は上から、ニュートン(異母、1837)、ジェームズ(1841)、ヴァージル(1843)、 Martha、本人(1848)、モーガン(1851)、 ウォレン(1855)、Virginia,、Adelia など。父親のニコラス"Nicholas Porter Earp"は農場を持つ法律家だった。
 1850年頃、アープ一家は幌馬車隊に加わりカリフォルニアを目指した。娘Marthaが病気になりアイオワ州に土地を買って住み始めた。Marthaは1856年に亡くなった。
 1861年、南北戦争が始まり、年長のニュートン、ジェームズ、ヴァージルが合衆国軍(北軍)に参加した。父親が忙しいため13歳のワイアットと2人の弟が広大なとうもろこし畑をまかされた。
 1864年12月、一家はカリフォルニア サンバーナーディーノ"San Bernardino"に着いた。
 1865~68頃、ワイアットはネバダやユタで荷馬車による貨物輸送をしていた。
 1868年、ワイアットは大陸横断鉄道建設中のユニオン・パシフィック鉄道の輸送業務に雇われる。ワイアットはそこでギャンブルやボクシングを覚え、レフリーもした。

■最初の結婚

 1870年(22)、ワイアットはアイオワでユリラ・サザーランド"Urilla Sutherland"と結婚した。ユリラは出産前に死去した。妻の死後、ワイアットは横領、詐欺、馬泥棒など次々に犯罪を犯すようになる。
 その後2年間、ワイアットはイリノイ州ピオリアで馬を盗んで逮捕され、脱獄し、2回告訴され、売春宿関連の犯罪で3回も逮捕された。当時の新聞にも載った。
 1873年頃はバッファロー狩りをしていたという説がある。
 1874年、ワイアットはカンザス州ウィチタにやってくる。兄ジェームズの売春宿を手伝っていたらしい。1875年、ワイアットは地元の警察に勤めるようになる。

■ドッジシティ(ガンザス)

 1876年(28)、ワイアットはドッジシティの警察に勤めるようになる。
 1877年、サンタフェ鉄道を襲った犯人を追ったワイアットはテキサス州の酒場でギャンブラーのドク・ホリデイと出会った。
 1878年、ドッジシティのエド・マスターソン保安官が殺害され、チャーリー・バセットが町の保安官"city marshal"にワイアット・アープがバセットの補佐"assistant marshal"に任命された。
 夏に、ドク・ホリデイがドッジシティにやってくる。カウボーイズ(当時、その地域ではならず者を意味する)たちが暴れていたサロンに乗り込んだワイアットはドク・ホリデイに命を救われた。ワイアットはここでジム&バット・マスターソン兄弟とも知り合う。

■トゥームストン(アリゾナ)

 1879年(31) 、ワイアットは兄ヴァージルから落ち目のドッジシティから銀鉱山で急発展中のトゥームストンに移らないかと誘われた。
 11月末、ヴァージル・アープがトゥームストン鉱業地区の副連邦保安官"deputy U.S. marshal for the Tombstone mining district"に任命された。12月頭にヴァージル、ジェームズ、ワイアット・アープ兄弟がトゥームストンに着く。兄弟は鉱業権や水圏に投資しサロンを経営した。
 ジェームズは酒場で働き、ワイアットはウェルズファーゴの輸送馬車の護衛となった。
 1880年夏には、弟のモーガンやウォーレンがやってきてドク・ホリデイもやってくる。
 軍から盗まれた軍馬の捜索を依頼された副連邦保安官ヴァージル・アープは、ワイアットとモーガンに補佐を頼む。マクローリーの牧場で焼き印を変えられた軍馬が見つかった。マクローリーはカウボーイズだった。カウボーイズには他にクラントン兄弟やインディアン・チャーリー、カーリー・ビル、ジョニー・リンゴ(リンゴ・キッド)などがいた。
 ワイアットはピマ郡東部の副保安官"deputy sheriff"に任命される。副保安官の仕事は徴税係を兼ねていてかなり実入りのいい仕事だった。しかし3か月後の郡保安官選挙をきっかけにワイアットは職を失った。
 ピマ郡東部に新設されたコチセ郡保安官にはジョニー・ビーハン"Johnny Behan" が選ばれた。この頃ビーハン(35)はジョセフィーヌ・マーカス(18)と付き合っていた。ワイアットにはマティという妻がいた。

■ OKコラルの撃ち合い

 1881年、アープ兄弟とカウボーイズの関係は険悪になっていて、カウボーイズはアープ兄弟を殺すと脅していた。
 ヴァージルはトゥームストンの保安官"city marshal"として町への武器の持ち込みを禁じていた。
 10月26日水曜日、ヴァージル・アープはカウボーイズが武装してOKコラル近くに集まっていると聞き、午後3時ごろ臨時保安官補佐"temporary assistant marshal"ワイアット・アープ、副保安官"deputy city marshal,"モーガン・アープ、さらにドク・ホリデイと共に向かった。
 彼らは5人のカウボーイズをフリーモント・ストリートの入り口に近いOKコラルの隣の空き地で見つけた。建物の間は狭く両者は2~3mしか離れていなかった。撃ち合いが起きアイク・クラントンとビリー・クレイボーンは逃げ、トム&フランク・マクローリー、ビリー・クラントンの3人が死んだ。ヴァージルとモーガンが負傷した。
 アイク・クラントンはアープ兄弟とドク・ホリデイを殺人罪で告訴した。
 裁判で、コチセ郡保安官ビーハンはアープ兄弟は手をあげているカウボーイズを虐殺したと証言した。アープ兄弟はカウボーイズたちを武装解除しようとしたが、ビリー・クラントンとフランク・マクローリーが先に発砲したと証言した。
 裁判官はアープたちの行為は法に準拠していて、告訴するのに充分な証拠がないと告訴を却下した。

 12月28日、通りを歩いていたヴァージルが撃たれ左腕と肩を負傷した。付近でアイク・クラントンの帽子が見つかった。
 ワイアットは連邦保安官"U.S. Marshal" のCrawley P. Dake に補佐の任命権を持つ副連邦保安官"deputy U.S. marshal"に自分を任命するように要求し認められた。
 3月18日夜、ビリヤードをしていたモーガン・アープが窓越しに路地から撃たれて死んだ。

■ 追跡

 副連邦保安官"Deputy U.S. Marshal"ワイアット・アープは、兄弟のジェームズとウォーレン、ドク・ホリデイ、 テキサス・ジャック、他4人の追跡隊を集めた。
 モーガンの遺体はジェームズが付き添って家族の墓のあるコルトン(カリフォルニア)に移送することになった。ワイアットたちはツーソンでフランク・スティルウェルたちが待ち伏せしていると聞いた。翌朝、フランク・スティルウェルの死体がツーソンの線路脇で見つかった。
 ツーソンの判事はワイアットと5人の副連邦保安官の逮捕状を発行した。コチセ郡保安官ジョニー・ビーハンはジョニー・リンゴたち追跡隊を集めてワイアットたちを追跡した。
 ワイアットの追跡隊は次々とカウボーイズを探し出して殺していった。ビーハンの追跡隊が後を追った。

■その後

 ワイアットたちはアリゾナを離れ二度と戻らなかった。
 ワイアット・アープとテキサス・ジャックが金ブームのガニソン(コロラド)にいたころリッチーというドイツ人が彼らに金色に塗った岩を売られそうになったと訴えた。

 1883年、ワイアット・アープは友人のルーク・ショートに呼ばれドッジシティに行った。ドッジシティの市長はルーク・ショートの賭博場の閉鎖を命じていた。他にもバット・マスターソン、チャーリー・バセット、ニール・ブラウン他が集まった。結局牛の取引シーズンでの市への経済的効果から閉鎖は中止され「ドッジシティ戦争」は回避された。集まった男たちの記念写真が残っている。
 1882年(34)、ワイアット・アープはサンフランシスコで、ビーハンの元恋人ジョセフィーヌと再会した。
 ワイアットとジョセフィーヌ(愛称サディ)はシルバートン(コロラド)、イーグルシティ(アイダホ)、エルパソ(テキサス)などを転々とした後に、1887年に不動産ブームのサンディエゴに移った。1896年頃までワイアットは4つのサロンとギャンブルホールを経営してかなりの利益を上げていた。最も人気のサロンの上層階には人気の売春宿があった。ワイアットは競馬にも投資した。

■全米ヘビー級ボクシングチャンピオン戦

 1896年12月、ワイアット・アープはサンフランシスコで開催されたフィッツシモンズ対シャーキーの全米ヘビー級ボクシングチャンピオン戦のレフリーを勤めた。この試合にはたくさんの人たちが賭けていた。(英語では" the heavyweight championship of the world"だがアメリカ英語の"world"はしばしば北米だけを意味する)
 8ラウンドまでフィッツシモンズはシャーキーを圧倒していた。
 フィッツシモンズはアッパーカットの後、シャーキーのベルトの下を打ちシャーキーは崩れ落ちた。ワイアットは試合を止めシャーキーの勝利を宣言した。シャーキーがベルトの下を強打されたことを医者も確認した。
 しかし、フィッツシモンズは裁判に訴えた。裁判官は試合は違法と判断した。それまでアリゾナとカリフォルニアでしか知られていなかったワイアット・アープは全米から非難され、トゥームストンの撃ち合いまで非難された。トゥームストンでアープ兄弟と対立したジョニー・ビーハンはアープ兄弟が手をあげているカウボーイズを虐殺したと訴えていた。彼によればアープ兄弟もカウボーイズも悪党で犯罪の利権を巡って敵対していた。1897年、ビーハンの主張をワシントンポストが取り上げ、サンフランシスコ・コールも掲載した。
 試合の8年後、シャーキーがベルトの下を強打されたように偽装したと医者が認めた。

■アラスカ・ロサンゼルス

 1898~99年頃ワイアットとサディはアラスカのランパートやノームにいた。アラスカにいる間にワイアットは、作家ジャック・ロンドンと知り合った。
 1899年11月、ワイアットはシアトルで賭博サロンを開設し繁盛したが違法を理由に取り潰された。
 1900年以降、ワイアットとサディはロサンゼルス、トノパ(ネバダ)、ゴールドフィールド(ネバダ)に移る。鉱業権売買やサロン経営をしていた。
 1911年から1928年頃までワイアットとサディは夏をロサンゼルスで、他の季節はビダル(カリフォルニア)に買ったコテージで生活していた。

■映画界とのつながり

 1915年(67)頃のロサンゼルスで ワイアットは サイレント時代の西部劇映画のアドバイザーをしていて、当時の映画スターのウイリアム・S・ハートやトム・ミックスやジョン・フォード監督とも親しくなった。
 1923年のウイリアム・S・ハート主演映画「ワイルド・ビル・ヒコック(原題)」にはワイアット・アープに扮した俳優が映っている。

■ 伝記への取り組み

 ワイアットはウィリアム・S・ハートに自分の間違った評判を正したいと相談した。ハートは伝記を書いてくれる作家を見つけるように勧めた。
 1925年(77)、アープは友人の John Floodと毎週日曜日に会い自身の体験を話して伝記を書かせた。常にジョセフィーヌが同席して口をはさんだ。ジョセフィーヌはワイアットを英雄として書かせようとした。
 ハートも応援してくれたが伝記を出版してくれる出版社は見つからなかった。

■ 死去

 1929年1月13日、ワイアット・アープは80歳で死去した。アープ兄弟の最後のひとりだった。
 葬儀にはウィリアム・S・ハートやトム・ミックスも参列した。

■ レイクの小説

 1931年、スチュアート・N・レイクによるワイアット・アープの小説"Wyatt Earp: Frontier Marshal"が出版されベストセラーとなった。この本によって名保安官ワイアット・アープの名声は全米に広まった。ワイアット・アープを描いたTVシリーズや映画は少なからずこの本の影響を受けている。ジョン・フォード監督の「荒野の決闘(1946)」もこの本を下敷きにしている。
 しかしレイクがワイアットに初めて会ったのはワイアットが80歳、つまり死ぬ直前だったらしい。レイクはワイアット・アープに8回しか会っていない。常にジョセフィーヌが同席して口をはさみ夫を高潔な男に書かせようとした。ワイアットは酒を飲まなかったとも書かせた。
 レイクはワイアットやジョセフィーヌの話の信ぴょう性の確認もせず、わずかな情報を基にひとりで町の悪党どもを一掃した西部のスーパーヒーローを描き上げた。
 この本によればワイアット・アープは1871~72年頃バッファロー狩りをしていた。しかし当時のピオリア(イリノイ)の新聞にはピオリアに住むワイアット・アープの複数の犯罪や逮捕歴が掲載されている。
 現在ではこの本は伝記というより小説と思われているようだ。

■ バントライン・スペシャル

 有名なバントライン・スペシャルもレイクの本で紹介された
 レイクによればワイルド・ビル・ヒコックやバッファロー・ビルを主人公にした西部小説で有名な小説家ネッド・バントラインが特注した長銃身コルト・シングルアクション・アーミー・リボルバーを5人の名保安官に贈ったという。5人とは、ワイアット・アープ、バット・マスターソン、ビル・ティルマン、チャーリー・バセット、ニール・ブラウン。不自然なのは広い西部の中で贈られたのがいずれもワイアット・アープの友人だったということ。
 バントライン・スペシャルはTVシリーズ "The Life and Legend of Wyatt Earp(1955–1961)"で取り上げられて有名になった。このシリーズにはネッド・バントラインも登場する。
 しかしコルト社には受注記録が残っていない。バントラインの記録にも書かれていない。バントラインがワイアット・アープに会ったことがあるかさえも不明。そのためバントライン・スペシャルはレイクの創造という説もある。もしかするとレイクは誰かに聞いて信じたのかもしれない。

■ ワイアット・アープ自身の混乱

 ワイアット・アープ自身の証言も間違っていたり言っていることが変わったりしていることがある。
 OKコラルの撃ち合い後の審理でワイアット・アープはドッジ・シティでは町のマーシャルだったと証言し、1896年のサンフランシスコの審査官に対しても同じ主張を繰り返した。しかし実際にはアシスタント・マーシャルにすぎなかった。
 カウボーイズだったジョニー・リンゴはOKコラルの撃ち合いには加わらなかったがモーガン殺害に加担したらしい。撃ち合いの翌年にアリゾナの木の上で死体が見つかった。1896年、ワイアット・アープはデンバーの記者にリンゴを殺していないと答えたが、その後、複数のインタビューで自分が殺したと主張した。

■ 名保安官ワイアット・アープのイメージ

 多くの映画でワイアット・アープは中心人物として描かれている。しかし兄のヴァージル・アープはワイアットよりも5歳も年上で戦争や保安官としての経験も豊富だった。トゥームストンではヴァージルはシティ・マーシャル兼連邦副マーシャル"deputy U.S. marshal"で、ワイアットは臨時アシスタントに過ぎなかった。
 ワイアットが彼の兄弟、友人、敵たちより勝っていたのは一度も弾に当たらず長生きしたことだ。老人の自慢話に反論できる人たちはみんな死んでしまった。アープ兄弟の悪評を広めたジョニー・ビーハンも1912年に亡くなっていた。ワイアット・アープを名保安官として描いている映画ではビーハンは腐敗した郡保安官として描かれている。

■その他

-ビル・ティルマン
 バントライン・スペシャルを贈られたひとり。本人のWIKIPEDIAにはワイアット・アープの親しい友人と書かれているがどこで交流があったのか不明。映画「Wild Bill Hickok (1923)」の登場人物にはワイアット・アープもビル・ティルマンもいる。
 2019年に映画「ビル・ティルマンとアウトローたち(原題)」が米国で公開される。


■参考記事 WIKIPEDIA2018/07 (英語版。日本語版はかなり省略されているため参考にならない)

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テーマ:映画関連ネタ - ジャンル:映画

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